クリスマスイブ・礼拝メッセージ
- 2007/12/25(火) 12:19:55
クリスマスイブ礼拝・メッセージ
聖書:ルカによる福音書2章1−21節
説教:「キリストの降誕」 池田伝道師
さきほど、イエス・キリストをあらわす光が、みなさまのもとに分けられました。私たちの教会では、今年は12月2日からここにありますアドベント・クランツに毎週一本ずつ火をともし、さまざまな備えと心の備え・そして祈りながらクリスマスを待ち望んでまいりました。昨日はすべてのろうそくに火がともり、会堂の座席がいっぱいになるほどの多くの方々と共にクリスマス礼拝と祝会の時を持つことができ、今宵もまたみなさまと共にクリスマス・イブ礼拝の時を持つことがゆるされましたこと、感謝です。
クリスマスという言葉は英語なのですが、もともとはラテン語の「クリストゥス・マッセ」という言葉から来ています。クリストゥスはキリスト、救い主を意味し、マッセはミサ、礼拝を意味します。ですからクリスマスとは語源をたどると「キリストの礼拝」という意味なのですが、ひいては「キリスト降誕のミサ」「キリスト降誕祭」とも訳され、伝えられてきました。
毎年クリスマスになりますと、ふと思い出しますのが大学時代の友人の言葉です。その方は、日曜日の朝の礼拝は、ごくたまに出席するくらいでしたが、毎年、クリスマスイブの礼拝だけは欠かさずに出席していた人でした。毎年のことですので、今年も行くかなあ、と軽い気持ちで声をかけてみたら、ある年涙ぐみながらこんな風に言われました。「今年はたった一人の弟が原因不明で突然自殺してしまい、家族全員が落ち込んでいて、今、とても神様を賛美する気持ちにはなれない」そのようにおっしゃるのでした。いつもはとてもサバサバしていて、知的で気丈な彼女のそんな言葉に、私もその時、グッと言葉がつまって、それ以上何も言うことができませんでした。その年のクリスマスイブは、彼女と、彼女の弟さんやご家族を特におぼえ、祈りながら過ごしました。
教会のメッセージは、毎週来ている人だけに向けられた排他的なものではなく、むしろ、教会の扉の外で、行こうかなどうしようかな、でもこんな状態では行けないな、私など行ってもいいのかしら、という人に向けて語った方がよいのではないか、と以前話し合ったことがございます。ミュージシャンであり、神学校で同級生だったJさんも、コンサート会場の一番後ろでもう帰ろうかな、と思っている人に焦点をあわせることが大事だと思う、と言っていました。私はそれはとても聖書的であるし、イエス的である視点だと思っています。
何故なら聖書がメッセージを伝えている対象は、すべての人々に、ではあるけれども、特に聖書において大切にされている対象は、富裕な幸せな、いつでも喜びにみちあふれた人ではなく、弱く小さくされた人たち、貧しい人々であるからです。そしてイエスという人は、世で差別されていた人、抑圧されていた人や、当時人間の数にも数えられず、それこそ会堂の奥に入ることもできなかった女性や子どもを尊ばれ、貧しい人々と共に歩まれた方だからです。
例えば旧約聖書において、神に選ばれた民として出てくるイスラエルは、どの民よりも貧弱で、小さかったからこそ神に選ばれたとあります。
本日読まれました聖書の箇所から、具体的にキリスト降誕の出来事を通してみても、小さきもの、貧しきもの、弱くされた者をこそ尊ぶ神の視点ははっきりしています。
例えば、イエスの誕生。2章5節では「身ごもっていた、いいなずけのマリア」とやわらかに言い回されていますが、1章34節の伝承でも明らかなように、マリアの子として描かれています。異性と結婚して、結婚した後にできた子ではないことがはっきりと記されています。当時の社会の中で、できちゃった婚のようにすら見られなかったことは、イエスが、「マリアの子」「マリアの子」と侮蔑的に呼ばれることがあったという伝承からも明らかです。戸籍上の父親以外の人から生まれたイエスが、この子は聖霊によって生まれたといっても、イエスがまだ幼い頃、当時誰が信じたでしょうか。日本でも婚姻外で生まれた子を私生児として、生まれた子どもには何の罪も無いのに生まれながらに婚姻内で生まれた子とそうでない子どもを差別する法律が未だに残っていますけれども、イエス自身、生まれながらにして当時の社会の中では、世間の規範や常識から外れた、アウトサイダーであったわけです。しかしそのイエスを神の子として、そして、結婚する前から夫以外の子を宿しているマリアを神の母として聖書は描いています。
そして、ルカによる福音書においては、イエスの誕生は、まず最初に羊飼いたちに告げられた、と伝えられています。羊飼いたちという人々は、当時、職業の性質上、律法の細かい規定を守れない人々として、権力者、富裕な人々から侮蔑されていた人たちでした。しかしその弱く貧しく小さな者たちに一番に、大きな喜びは伝えられています。「わたしは民全体に与えられる大きな喜びをあなたがたに告げる。」「喜びを告げる」、は、もとのことばでは福音をつげる、です。すなわち神の福音は一番にこの貧しく弱い羊飼いたちに告げられたのです。
更に、イエスがメシア、救い主であるという「しるし」は、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であるとその時告げられたとも伝えられます。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」とは、この世で最も貧しく汚く、力のない者の象徴のようなものではないでしょうか。金持ちの家に生まれ育ち、どれそれの力を持っている人が救い主のしるしだとは伝えられていないのです。もし、イエスが、豪華な、ふかふかのベットで生まれていたら、どうだったでしょうか。様々な理由で居場所を奪われた経験をされた方々は、イエスとの間に、果てしない距離を感じるのでは、ないでしょうか。どうせ、イエスには、自分の苦しみなど分かってもらえないと考えるのでは、ないでしょうか。しかし聖書は、そのような力を落としている人々を励ますかのように、貧しくいと小さきものを尊いものとして描いているのです。
そしてその声は羊飼いたちが野宿している、荒れ野にひびきました。さきほど歌いました讃美歌「あらのの果てに」にあるとおりです。荒れ野に関しましては、16日のメッセージでも少しお話したのですが、聖書においては荒れ野とは神が現れる場所として描かれています。旧約聖書の出エジプト記で、モーセやイスラエルの人々が荒れ野で飢えて死にそうになった時に神があらわれたように、また、列王記においてエリシャが力尽きて倒れそうになった時にもやはり荒れ野において、神が現われたように、荒れ野とは、にっちもさっちも行かなくなった時に神が現われるというような、そのような象徴的な場所です。その荒れ野においてここでも神の言葉は、貧しい羊飼いたちに伝えられたとあります。それは、神の言葉が貧しく小さくされた、様々な抑圧の中にある人に向けられたものであるのと同時に、私たちが自分の無力さを感じ、自分がゼロであり無であることを知るような時に、あら野から、神のことばが響くのだという希望を示しているものといえるでしょう。
また、この少し前の、1章のマリアの賛歌のところにはこのようにあります。「主はその腕で力を振るい、思いあがる者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
このように、降誕の箇所一部をとってみても聖書のメッセージは、世で認められている裕福な人や権力者ではなく、貧しき小さく弱い人々に向けられていることは明らかです。ルカ2章20節の羊飼いたちの喜びようをご覧下さい。「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった」この時の羊飼いたちの喜びようは素直すぎてかわいらしいくらいです。一方、権力者たちは、どうでしょう。救い主が現れて自分の地位が危うくなるのを恐れて不安定になっている者として描かれています。聖書のその小さくされたものをこそ尊ぶ視点は、その後描かれるイエスの生涯を見たときに最も、明確になります。来週以降の降誕節は特に福音書に重点をおいて読みながらイエスの生涯をたどってまいりますが、イエスという人は子ども、売春婦、徴税人を尊び、そのように世で抑圧され、小さくされていた人々と共に歩まれたかただからです。
私たちの教会では私もA牧師も聖書の言葉を一字一句妄信し、それにがんじがらめになるような読み方はしておりません。聖書が伝えているものは裁きよりも恵みです。排除ではなくすべての人に伝えられる喜びの知らせです。クリスマスは、フランスでは「ノエル」と言われますが、ノエルとは、「喜びの知らせ」という意味です。そして聖書に脈々と流れているものは、幸せに酔って、傲慢になっている時ではなく、魂打ち砕かれてボロボロに傷ついている時にこそむしろ深く響くような、そのようなメッセージです。詩篇51篇19節にも、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ、悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」とあります。またイエスは、人々の前で目に見えるように莫大な献金をささげる人々より、レプトン銅貨2枚という、この世から見ればわずかかもしれないけれど、心からの捧げものをする貧しいやもめの愛の行為を見逃されない方でした。聖書を通して伝えられるそのような小さきものを見逃されず、むしろ尊ぶ神の愛は、ひいては、すべての人が、どんな時であれ神に祝されてあるということを表す神の大きな恵みであると私は思っています。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
ダイレクトにみことばを聞いた羊飼いたちは、幼子について天使が話してくれたことを人々に伝えたとあります、そして最後、神をあがめ、賛美しながら帰っていった、とあります。
貧しい羊飼いたちのこの様子は私たちの希望です。マルチン・ルーサーキングの言葉が私たちを打つように、ナチス支配下のドイツで命を落としたボンヘッファーの言葉が私たちをうつように、貧しく、抑圧され、しかしそれでもなお神のことばをその中にあって聞き、伝えた人々の言葉は私たちを何と励ますことでしょうか。生きてゆく上にはいろいろなことがあって本当に、ただ、生活するだけが、場合によっては寝床で息をするだけがやっとの時もあると思います。しかしイエスは命を落とす前、弟子であるペトロの裏切りを知っていながらなお、ペトロにこうおっしゃるような方でした。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私たちも、それが可能である時、ゆるされている時は、ひとりでも多くの、立ち上がれないくらいに傷ついている仲間に、ひとりではないと伝えられる者でありたいし、何よりも主がいつも共におられるということを伝えられるものでありたいと思います。そして主イエスの希望の光がともされたこのクリスマス、世界の貧しく弱く、小さくされた人々のために祈りながら、彼らと共に歩むために私たちが何ができるか考えつつ過ごしたいと思います。
最後に、ランベルト・ノーベンという人の詩をご紹介します。
神は言われる。
わたしは裸で生まれた
あなたが自我を脱ぎ捨てるために。
わたしは貧者に生まれた
あなたがわたしを唯一の富と見なすために
わたしは馬小屋で生まれた
あなたがどんな場所をも聖とするために
神は言われる
わたしは弱者に生まれた
あなたがわたしを怖がらないように
わたしは愛のために生まれた
あなたがわたしの愛を疑わないように
わたしは夜中に生まれた
わたしがどんな現実でも照らせることを
あなたに知ってもらうために
神は言われる
わたしは人間として生まれた
あなたが神の子となるために
わたしは被害者に生まれた
あなたが困難を受け入れるために
わたしは質素な者に生まれた
あなたが装飾を捨てるために
わたしはあなたの中に生まれた
あなたをとおしあなたと共に
すべての人を父の家に連れていくために。
以上です。
「わたしは夜中に生まれた
わたしがどんな現実でも照らせることをあなたに知ってもらうために」
クリスマスイブの夜、みなさまの上に、まだみぬ友の上に、暗闇の中に生まれたイエス・キリストのあたたかい光がともりますように願っています。
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